軍道から馬頭刈山

尾崎喜八氏の散文集「山の絵本 (岩波文庫)」収録の「一日秋川にてわが見たるもの」には、喜八氏が秋川渓谷撮影競技会に参加した折に訪れた早春の馬頭刈山と里の風景が描かれている。時季もちょうど同じ頃、自分も氏と同じコースを辿ってみようと出かけてみた。(2014/04/13)

「一日秋川にて・・・」は昭和9年の作。当時の様子を偲ぶために今昔マップでコースを示してみた。(昭和7年5月30日発行「五日市」1/5万)

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喜八氏は、この日最初に浅野セメント(現太平洋セメント)西多摩工場で発破作業を見学した後、金比羅山の南東の麓にある奥多摩カンツリー倶楽部「山の家」(現在は何になっているのか不明)でお弁当を使い、知人とともに西戸倉、星竹、落合、寺岡と歩いて軍畑の集落から馬頭刈山に登るのである。

今回は、前半の部分を端折らせてもらい、武蔵五日市駅から上養沢行きのバスの乗り軍畑バス停からスタートすることにした。(2014/4/31)

“寺岡の手前で乙津へ出る間道を左へ捨てて、右へ養沢川を新橋で渡ると、中々立派な小学校を中にして川沿いの路は怒田畑へ、左へ登る路は軍道へと通じてる。私たちはコーカサスの部落のような寺岡と川とを右下に見ながら左へ坂路を登った。現れた軍道は丘の半腹に南を向いた住み心地良さそうな小部落である。”

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軍畑バス停前にある自然体験学校

この自然体験学校は以前は小学校だったようである。ここが氏の言う「立派な小学校」なのだろうか。

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長閑な軍畑集落

“一二軒群を離れてぽつねんと住む部落最後の農家で光明山への登路をたずねると、縁側で裁縫をしている細君がすぐその先だと云う。なるほど一投足の左手に、ちゃんと「光明山道」の道標が立っていた。”

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高明神社の脇に登山口がある

高明神社はもとは高明(光明)山の上にあったが、平成3年に麓に遷座したとのこと。したがって氏の記述にも登場していない。ここが光明山道の標識が立っていた場所だろうか。

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小川の脇の緩やかな道を登る
馬頭観音様がたたずむ

“われわれはいよいよ雪を踏んで、杉の植林の中の電光形の路を登る。それが二〇〇メートルあまり続くと尾根筋へ出る。暖かい日光が針葉樹の透間からちらちら洩れて、軟かく積った雪を匂うがように染めている。”

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荷田子バス停分岐

電光型の路は瀬音の湯への下山路でおなじみの荷田子バス停分岐で終わり、ここから尾根筋に乗る。

“尾根筋へ出ると傾斜もゆるやかで、年古りた参道の杉が黒々と立ち続いている。行くほどに小さい祠がある。高さ一メートルもあったろうか、私たちはこれが光明神社にしては余り見だてが無さ過ぎると思った。”

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高明神社の鳥居

すぐに石造りの高明神社の鳥居が現れる。当時はまだ建立されていなかったのか鳥居の記述はないが、立派な参道を思わせる杉木立が尾根路に続く。

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大杉神社とある

“此処で忘れないうちに書いて置くが、この神社と下の小さい祠との中間ぐらいの処、小径のまんなかに、かなり大きな石灰岩の石筒の塊りが二箇ばかり露出していた。直径二メートルもあろうか、一見蟲食った巨大な奥歯のようで、私たちは馬頭刈の馬の臼歯が転げて来たのだなどと冗談を云った。それを撮影しなかったのは今考えても残念である。”

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巨大な奥歯

喜八氏らが「馬頭刈の馬の臼歯」に見立てたのはこの岩だろう。うんうん、たしかに虫歯の奥歯のようだと自分も納得する。

“果たしてそうで、本当の社は其処からなお百メートルほど登った処に鎮座していた。拝殿を持つその朱塗りの社の前には、東京府の制札が立っていた。”

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高明神社跡

朱塗りの社は今はない。麓に遷座した後、落雷により焼失したと聞いたことがあるが定かではない。しかし境内は掃き清められて、今でも麓の方達に大事にされているようだ。

“南東に岩石の露頭を見せる一つの突起を登ってから振返ると、今しがた光明山背後の疎林の中で遇った二人連れの中学生が、一人を先へ歩かせて、一人がうしろからそれをシネコダックで撮影していた。画面で活躍している此の若いワンデラアの顔の表情が見たかったが、こちらは望遠鏡を持たないので折角の望みも空しかった。私は彼らのためにその「春の遠足フリユーリンクスバンデルング」一巻の成功を祈った。そして程もなく馬頭刈山頂。時計を見ると二時五十分。五日市の「山の家」から正味二時間半を費している。”

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馬頭刈山。誰もいません( ´ ▽ ` )ノ

神社跡からわずかに登って高明山頂(798m)。そして南面の植林が切り払われた明るい道を過ぎ、記述どおり、南東に岩石の露頭を見せる一つの突起を登って程なく馬頭刈山(884m)に着く。

“さて下山の時が近づいた。私たちの後から此の三角点まで来た前記二人の中学生は元の道へ引返した。もう一人単独で登って来た(恐らく光明山下で水車を写していた入らしい)人も、私たちを待ちきれずに心細そうに南方の尾根を降って行った。そして其の尾根をわれわれも帰路に選んだのである。私の持っている五万分の一地形図にはこの小径の記入がないが、頂上から真南ヘー纏の路はどんどん降っている。”

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和田向バス停への道標

和田向バス停への道標が示す道が、まさしく氏らが下山路に選んだ馬頭刈山南方の尾根であろう。道標はあるものの、現在でも「山と高原地図」や市の設置した山頂地図にもやはり破線すら表示がない。

“雪の溶ける 早春には降りにも登りにも靴の滑る茅戸の路である。しかし間もなく暗い植林地へ入る。ちょうど七百メートルばかりの処で足が岩を感じるようになる。そのあたりで一本の路が斜に左へ切れている。私たちはその方へ下りずになおも雑木の茂った岩尾根を南へ進んだが、気がついて引返して左への路を取った。これは光 明山と馬頭刈の中間から南東へ落ちる大沢への通路で、地図では乙津から北西へ小径の記号が半分程記入されているが、この二つが結局邂逅するのである。”

バス停への道標が出ているぐらいの道なので安気に下ってみたが、途中からは想像以上に寂しい、なんとなくいやな気持ちがする荒れた道になった。テープを見つけながら出ないと道を見失いそうになる。氏らがとった乙津方面に左に下る道を見つける余裕もなく、脇目も振らずにひたすら泉沢を目がけて駆け下った。

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泉沢集落の馬頭刈山登山口

ここで氏らの足跡を辿る旅は終わり。泉沢集落から急な舗装路を20分ほど下り和田向バス停で、ちょうど来た武蔵五日市駅行きバスに乗り瀬音の湯で一浴し帰路についた。

途中に喜八氏はこう述べている。

“東京附近の山に親しんでいる人々にいまさら馬頭刈からの眺望を説く必要もあるまい。しかし私が五日市からの登路を、途上の所見を交えてやや詳細に語ったのは、近来この山頂を踏む人たちの大部分が逆に大岳山から茅倉尾根を縦走して来る関係上、あとは矢のような帰心と歩調とのままに、部分的な細かい観察の余裕を持たないように見えるからである。国の内外を問わず、多くの山岳紀行文にあって、登路と降路との叙述に幾分均衡が欠けていることの有るのも此のせいだろうと思う。そしてどうもこれは仕方の無いことらしい。しかし登りに比較して降りがおおむね楽な我が国の山において、登山者の観察が行きに詳細で帰りに疎略であるとしたならば、此処にわれわれの肉体的並に精神的エネルギーの持久性に関する一つの考察の余地が残されていはしないだろうか。山から里へ下りるということは、勿論、地の傾斜に従って降ることだから歩速も急であり、日足の廻るにつれて心もいそぎ、それに帰途の乗物の時間もあるので、午前中の登りの場合に較べればすべてに余裕のないのは当然であるが、それにしてもせめて眼だけは働かせて、他日この降路を逆に登る時の参考になるだけの注意はしたいものだと思う。”

現代の山歩き紀行文にもまったく当てはまる洞察である。自分も歩き記録と銘打ってブログを書く上での戒めにしたい。

(コースの記録)
武蔵五日市駅08:20=軍畑BS08:35~高明神社08:50~荷田子BS分岐9:20~高明神社(奥社)跡9:45~馬頭刈山10:10・・・10:20~泉沢・和田向BS分岐10:25~泉沢登山口10:55~和田向BS11:12=瀬音の湯

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